中間事業者取材記事

被災地中小企業の未来を照らす!経営のどん底を経て輝く熱意

岩手県北上市に本社を持つ株式会社フロムゼロは、復興支援と地方創生を掛け合わせた地域商社。代表取締役の登内芳也さんは、20代で起業しながらも経営のどん底も味わった経歴を持つ。登内さんがふるさと納税事業支援に携わるようになったのは、東日本大震災の被災地支援が契機。経営者としての危機を救ってくれた恩人の言葉、北上市で取り組んだふるさと納税事業、フロムゼロ創設などについてお話を伺った。

復興支援と地方創生を掛け合わせて

地域商社であるフロムゼロの軌跡を遡ると、東日本大震災の被災地復興支援にたどり着く。当時は東京で経営者として働いていた登内さん。群馬や東北などで被災者支援に走り回っていたとき、岩手県北上市役所の職員と出会った。

「僕は経営や自社製品の開発経験があり、宮城県で講演をしていたこともあったんです。その講演を聞いたことがある職員さんから、復興支援制度を作りたいので地域資源の発掘をしてほしいという依頼でした。当時の東北は、放射能の風評被害などがありましたから」

関東から岩手に通いながら支援を続けて半年程経つと、北上市の復興支援員になることを提案された。2013年からは北上市に移住し、復興支援員として北上市役所農林企画課に配属。現場で日々、地方創生を学んでいた頃にふるさと納税のことを知った。

「ふるさと納税の仕組みを知ったときはとても驚いたんです。寄付集めの大変さはボランティアをしていたときに感じましたので、すごい制度だなと感じました」

ふるさと納税に大きな可能性を見出した登内さんは、北上市で制度活用を推進。それまでは年間300万円程だった寄附額は、4年後には10億円に、6年後に16億円へと増えていった。岩手県内でも北上市の寄付額が5年連続県内1位を記録。震災で落ち込んでいた事業者の新たな活路となった。

経営者として味わった挫折と再生

登内さんにとって東北は、生まれ故郷というわけではない。東北の事業者支援に力を注ぐようになったのには理由がある。絵入り職人の父親を持ち、クリエイティブな環境で育った登内さん。高校卒業後はアパレル会社に就職し、販売やバイヤーの経験を積んでいったそう。

「全国の百貨店さんを回ったりしていました。その頃はバブルの最後の方の時代で、アパレルの社長たちが車をどんどん買い替えていたんですよ。そういうのに憧れて、社員でいるよりも会社を作ろうと考え、25歳のときに独立。バカなノリで売れば何とかなると思ったんですけど、3年で会社を潰してしまい見事に借金を抱えてしまいました」

借金返済のためにアルバイトを7つ掛け持ち。再起のためにがむしゃらに働いた。

「また起業したかったのですが、その前に会社に勤めることにしたんです。そうして入社したのが上場直前の会社で、経理をやらせてもらいました。パソコンと経理業務を覚え、上場の準備などに携われたのが良い経験になりました」

お金を貯めながら借金を返済。そうして1998年、31歳のときに二度目の起業を果たす。

「その会社はバイヤーズといって今も東京にあります。エコ雑貨を世界中から集めて売るという、環境商品の専門問屋です。こうした会社はそれまで日本になかったので、オファーが結構来て売り上げも伸びました。自社製品も開発して、LOFTや東急ハンズに卸したり。そこで調子に乗っていろいろな商売に手を出し、再び会社が駄目になっていったんです」

絶体絶命の状況で、さまざまな弁護士に相談。そこで出会った弁護士の一人が、中小企業再生・活性化のプロフェッショナルだった。

「弁護士の村松謙一先生から、『今後10年間でぐんぐん良くなる事業計画書を大至急作って』と言われました。そのときの僕の頭は負のスパイラルで固まりきっていた状態。会社を良くしようなんて考えられなかった。ですが村松先生から『自社商品を作ってヒットしてるじゃない。会社を潰すつもり? 伸ばすつもり?』と聞かれて、ハッとしたんです」

思考を前向きに切り替えられた登内さんは、銀行への相談や経営の見直しに取り組むことができたという。

「その先生みたいな生き方をしたいと思うようになりました。僕みたいな中小零細企業の経営者は山ほどいるはずですが、僕は弁護士になって経営者を助けられるわけじゃない。僕ができることは何だろうと思ったとき、売る手助けなら役立てると考えたんです」

困難を乗り越えた中小企業経営者との絆

登内さんは中小企業経営者の役に立つ方法を考え、自身の知見を人に伝える講演会などをするようになっていった。

「群馬県から仕事の依頼が入ったんです。中小企業や町工場に向けて、経営の勉強会の講師をしてくれないかという話でした。後継者が集まって、脱下請けを目指していたんです。BtoBでボルトやナット、計測機器などを作る下請け業だったのですが、『いつまでも下請け・孫請けだと未来が見えない。自分たちで商品を作らないと』という思いを持っていたんですよね」

自社製品開発や経営の経験もあった登内さん。講演会を通して後継者たちとの信頼関係も深まったそう。ところがアメリカでリーマン・ショックが起こり、日本の中小企業も大打撃を受ける事態に。

「例年と比べて仕事の発注が全然入らなくなってしまって。何かやろうと皆で考えて、跡継ぎたちで『株式会社 下請けの底力』を作ったんです。地元のテレビやラジオ、雑誌でもいいから、取り上げてもらえるようなネタを作り、皆で名刺も作って飛び込み営業をしました。『僕らのファンクラブに入ってもらおう! 目標1000人!』と言って始めたら、結果的に3000人位の人と繋がることができたんですよ」

群馬だけでなく東京など、人脈は少しずつ広がっていった。すると仕事の発注も入るようになったという。 「東京都の免振対策事業に関わっていらっしゃる方から、ボルト製作の依頼をいただいたんです。群馬県の町工場チームで受注したのですが、利益率の高い仕事だったこともあり、業績がぐんぐん復活していきました」

リーマン・ショック後にようやく明るい未来が見えたと思いきや、東日本大震災が発生。

「町工場の命は機械です。水と水平器とジャッキが足りなくて、ハイブリットカーを持っている仲間がいたので駆け付けたのですが、他にも足りない物がたくさんあって……。それから物資救援の往復が始まりました」

町工場の助け合いは被災地支援へと繋がっていった。その頃に出会った経営者が岩手県に縁があり、東北の被災地へ向かうことに。

「野田村という地域の被害がひどくて、人手が足りなくなったんです。群馬の町工場メンバーに加えて東京の経営者たちにも声をかけて、関東と岩手を行ったり来たり。東京に帰ってきたら報告会をしていたのですが、帰ってくるたびに参加者がどんどん増えて、最終的には100人位になっていました。全然知らない人同士だったのに、すごいですよね。漁師さんのために船を寄付しようとしたときに、漁師さんに贈与税の負担がかかるという話になって、それなら非営利型一般社団法人を作ってお金を集めることになりました」

ふるさと納税のノウハウ継承で地域活性

関東を拠点に岩手の被災地支援をしていた登内さんに、北上市役所から声がかかる。それから北上市に移住し、ふるさと納税に本格的に携わるようになった。

「ふるさと納税の仕組みを理解するために、ふるさとチョイスにお電話したら北上市に来てくれることになったんですよ。(当時の)市長と副市長、部長たちも集まって、ふるさとチョイスの方から説明をしてもらったのが、2013年位のことでした。地域資源の発掘は、僕がアパレル時代にやっていたバイヤーの仕事と似ているんですよね。ふるさとチョイスのサイトの仕組みはブログみたいで、職員の皆さんはパソコンが得意じゃなかったし、簡単に更新できるのも良かった」

ふるさと納税を活用すれば、沿岸部の被災事業者の復興にも役立つと考えた。ところが、東北でのふるさと納税活用はそう簡単には進められない事情があった。

「当時はまだインフラ復旧が最優先。職員も不足していました。新しい事業に手を出している場合じゃなかったんですよね。ただ、事業者さんたちからすると売り上げが欲しいんです。販路がなくなってしまった事業者さんもいました。それならまずは、北上市でふるさと納税の成果を作ってノウハウを溜めて、他の自治体さんたちの準備ができたときにノウハウを享受しようと考えたんです」

ふるさと納税事業のメリットを最大化する方法を模索し始めた登内さん。2016年には市役所から北上観光コンベンション協会(以下、協会)に移り、ふるさと納税事業を受託することに。寄付額の増加や事業者支援にますます打ち込んだ。

「沿岸部の自治体さんの応援をしたいとずっと考えていて、陸前高田市と大槌町から委託のオファーが来たタイミングで、協会を退職してフロムゼロを創設しました」

こんなにも被災地支援に熱意を燃やしているのは、経営者としての人生最大の危機を救ってもらった経験があるからこそ。

「僕は弁護士の村松先生に助けられて、会社が何とかなりました。そんな風に(人を支えられるように)なるためには、スキルや経験が必要。僕はまだ(中小企業支援の)プロになりかけている最中なので、いつか困っている人たちに『任せろ』と言ってあげたいですね」

地域を良くする熱意やノウハウを繋ぐため、フロムゼロは成長中。課題に直面する事業者や地域にとって、頼れる存在としてこれからも活躍していくだろう。地域は“人から人への熱意のバトン”でもっと良くなる、という登内さん。その理由を『読むふるさとチョイス』で語っていただいた。
『読むふるさとチョイス』へ

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